昭和53年12月10日 月例祭



 御本部の報徳祭を拝まして頂いて、丁度7時ちよっと前でしたでしょうか、こちらに到着さして頂きました。昔の報徳祭と言えば、四神様のお祭りと申し上げておりました。四神様の御大祭、二代金光様の御大祭と申しておりました、もうそれこそ、九州の大恩人である処の四神様、四神様あって九州に道が開けた、桂先生が助けられた、そしてその流れをくむ私共も助かっておると言う様な、ですからもう九州から大変なお参りでした、団体列車が何本も出ましてね。
 ところが最近は報徳祭というとお参りが少のうございます、ここも今度は少なかった、相済まん事だ、いわゆる徳に報いるお祭ということですから。諸師先覚の御霊さまを合祀して報徳のお祭をさして頂く、勿論三代金光様、特に今年は十五年の式年に、あっとられましたので、式年祭も一緒に、こうして拝ましてもらいました。本当にお祭を拝まして頂きながら相済まん事だと。本当に本気でおかげを頂かしてもろうて、それこそ昔に勝るようなおかげを頂いて。
 四神様にも喜んでもらい、三代金光様にも、尚更喜んでもらう、合楽がございますのは三代金光様のおかげでございますから、いわゆる九州の大恩人が、桂先生にとって大恩人であったならば、三代の生神金光大神、金光摂胤様は、私共合楽の大恩人であります、その自覚が段々出来てまいりまして、それこそ合楽を挙げて、ご参拝のおかげを頂けれるような、おかげを頂かせてもらえるような、おかげを頂きたいなあと、言う様な事を感じて帰りました。
 御大祭の終わりました後に、北九州のなんという先生でしたか、あぁ添田教会の先生がおかげを頂いて、お説教なさっておられました。そしてお話のなかに「報徳祭というのは、お礼に始まってお礼に終わる、お祭でなからなければならん。」というお話をなさっておられました、皆さんもお参りされた方は、お聞きになった通りであります。「お礼に始まってお礼に終わらなければならない。」私はそのお話を聞かせてもらいながら先だってから、泉尾の先生のお話を聞いた時のことを思い出させて頂いた。
 本部にさあ御大祭、麗々しう御祝詞があがって「有難い、有難いというてとお礼をいうて、まぁ皆んなはおるけれども、もし神様が、もし霊神様が生きておって、もしお声を掛けられるとしたら『このバカヤロウ』と大きな声でお叱りになるのではないだろうか」という私はそうする。有り難うございます、有難うございます」というが「何が有難いか」と「私が在世中には、あんなに沢山のご信者が助かっておったのに、こんなにチッポケになって少なくなって何が有難いか。
 過去帳をくるような信心は止めよ」と声を大にしてお話になりました。私の頂き方も私の持論ですけど、報徳祭というのは、徳に報いるというのは、『先生あなた方のご信心で、金光様あって合楽が生まれました、おかげで、今日このようなおかげを頂いて、日々再々、例えば10月11月12月の1日の、先生方の日誌が出来てますのを、何げなしに見せて頂きましたら。丁度100名ずつみっとりますお届け帳が月々、と言う様におかげを頂いて、かくおかげを頂いてます。
 これからどれだけ伸びるやら、どれだけ広がるやら分かりません。この元を取って下さった、ここのおかげを下さった、金光様にそのことを持ってして、私は神様がお喜び下さるのではなかろうか、それこそが、御恩徳に報いるという事はそういう事ではなかろうか、三代金光様でも二代金光様でも、それを願っておられるのではなかろうか。』とそういう風に思わして頂きました。
 皆さんどう思われるでしょうか、お礼も大事です、その内容にはお礼がなからなければなりません、けどももっともっと大事なのは、去年よりも今年、今年より来年と威や栄えるという事を願いとし、その事をお礼を申さして頂けれる信心でなからなければならない。ところが私共は生身を持っていますからね、なかなかそう生き生きとしたとばかりには参りません。
 本当に相済まない事でございましたけれども、今度の御大祭に、あちらに席をとって、一番真正面の中央の一番真正面に座らせて頂いた、ところが座らせて頂いた途端から眠気がさすんです、これは相済まんと思って、一生懸命我慢するけれども、なかなか眠気が覚めません。神様にお願いしとりましたら、御神願に「目ん玉の大きい漫才師がおいりましょうが何とかきよし、西川きよし、あれの相手をする人が居りましょうが、眼がねを掛けて何とかやすし。
 横山やすしのね眼がねを掛けている処を、私何時かテレビを見てたと時に、あの人の眼がねはレンズが入ってないんですね、目ん玉に手を突っ込んでいるところをテレビで見ておった事があるんです、」その場面を頂くんです。眼がねをかけていない、本当のもんじゃないけれども神様がね、眠たいけれども、それを例えば、眠たいからもうなにもかも分からん事眠かった、例えばお祭りが済んだ時に思うても、それを辛抱し抜くという事で神様がね、いかにもお祭りを拝んだように見て下さるという意味。
 眼がねがないけれども、向こうの方からは、いわゆる、レンズを嵌めておるものように見て下さるように私が眠うても堪えんけれど、お前が一生懸命辛抱しよる、その辛抱いよるという事に、神様は有り難くお祭りを頂いたかのように受けてやるぞ、というご理解を感じた、その御神願の中から神様から頂くということは、こんなもんでしょうか、一遍に目が覚めました。
 もうそして今申しますように、今日何とかマナブ先生という先生がお話になりなしたがあの先生ならあのままずうと話してもいいくらいに私は覚えている。それが居眠り半分の時は中々そうはいかない、その辛抱させて頂く、それを神様が受けて下さるとこういう事、もう眠かことちよっと立ち上がったり、ちよっと寝てたりそれでは信心にならんと言う事が分ります。生身ですから眠たいだけの事ではありません、いろんな事情もあります、事情をあるけれどもそこをね、押してゆく処に信心があるというのです。
 私は今度いろいろ驚きました話しを聞かせてもらったんですけど、末永先生と古川が前の日から御本部の方に行っとります、いろんな私用がありましたから、それで昼の合間をみて、ある大変御比礼が立つ教会にお参りさして頂いた、もう驚いた事には、沢山のお参りがあってお届けがあったそうですが、何とかかんとかいう先生が立たれてから、裏の方から何とかという、今健康食が流行りますね。
 薬とも食品ともつかないような、あれを一つ持って来て、「これを飲めばようなる9000円」といいなさった、二人でもうびっくりしたという話をしておりますた。それでも助かるんです、御祈念力で助かる、どこがどういう風に神様と通いなさるか分からんけれども助かるということならば、なで擦りしてでも助かるという教会があります。今度末永先生が教務所長とお話しさして頂いて。2時間にわたって、いろいろと南米布教の事をお話しをした。
 もうあちらでは、他の宗教は全部本部自体が打ち込んで布教しようと努力しとるけれども。今日の場合は、そこまで手が届かない、だからあちらで布教して頂くならば、本部と関係無しに、いうならばあちらに南米本部を作ってもよいと意味のことを話されたそうです。そしてあちら向きの金光大神の御教えというものをあちらの言葉に訳してそしてその本を作るといったような事を云われましたそうです。今アメリカの方では英語に翻訳して出しておるそうです、それで末永先生がいったそうです。
 金光様の御信者が、あの経典を紐解いておかげを頂いている、助かっているという人がありますか、あれを翻訳した分ではいかんです、もし本当に翻訳して下さるならば、合楽の教典感話を」というてした、ところが、教務所長はもう合楽贔屓の方です、私を中近畿に私がお受けした、その時に見えた当時の大阪の教務部長です、課長級の方達がえらいいろいろ理屈をいうて先生が話したそうです。
 合楽ではですね、とにかく「人間は土から生まれ土に還って行く、その道中とても土の心にならなければならない」とか又はね「柿の種にでもちゃんとすでに芽があるように、人間の心の中には生神の芽がちゃんと備わっておる、だからそれに水をかけたり土をかけたりするという信心によって生神の芽が出る、こういう話を翻訳して下さるなら、あちらの人間でも必ず分ります。」この事には理屈をいってた課長級の人達も黙ってしまったという事でございます。
 合楽の信心が大分認められてきた、昨日学院生と古川と末永先生と皆んなとお話し合いをしたそうです、今度はもう皆んな成績が良いと先生方から誉められた、そして学院生が喜んで話す中には「最近は合楽の話がひんぱんにお話のたんびに出る、いろいろと教えられた、その次には合楽の先生、合楽の大坪先生は「ここん処をこういう風に説かれるといいうてお話をされる。
 今度私が御本部参拝さして頂いても、いままでとは違った雰囲気というものを感じました、もう思いもかけない立派な先生が、挨拶にお出でられますもの、この頃中近畿でのお話を頂いたとかと言った様な具合でした。そう言う様にですね合楽の信心が、いうならば、段々教団の中にも入って広まる働きが現れてきよる、いよいよ皆んなが「合楽合楽」と本当の意味で注目するようになってきた。
 教えておいてその後に『合楽の先生はここん処をこういわれる、これの方では助からんけれどもこれの方では間違いなく助かっている」そう言う様に段々合楽が認められて来る様になった、そこで皆さんがね、合楽の場合はどう言う様な信心によって助かるかという事を思うて貰わなければならない「9000円出してからその薬を買うて帰ったらすぐおかげです効きました」と病気が治ればそれで良いといやあそれでいい訳です。
 私は今度皆さんと一緒に奥城で御祈念を頂く時に、いろいろ頂きました、これは私自身が頂いた事で、皆さんにお伝えするようなことはあんまり頂きませんでした。来年の私の信心の焦点、合楽の信心の焦点をお伺いしましたけれども、皆んなの事は頂かなかった、そして、あのう信心の造営という事を頂いた、それでいろいろ頂いた中に付いて来る者は、付いてくりゃよいという態度でお知らせを頂きました。
 今にも、もう始まるように、もう立ち上がるようにいうておったけれども、第一話もう話が出来て、御土地のお金をとってきて払うばっかりになっておる処から、私はどういう訳か、まだ聞きもせんでいますが崩れてからワヤになった、例えばそういう一事からでも、結局か神様が「信心の造営を先にせよ、信心の基礎をもちっと造れ、本気で造ってその上に建ち上がるものじゃないとダメだ。
 信者にあてをするな、お前自身が本気で信心の造営をしろ、そして付いて来る者は付いて来るそれでいいじゃないか」ということを頂いた。だから私の信心の、いろいろその時点から、いろいろあぁでもなかろうか、こうでもなかろうかと思うております。もう一つ頂いた事は、皆さんもいつも私お話しますからご承知でしょうけれども、泉尾の先生は、それこそ、55年間という、長い教師生活してきたが振り返ってみて、「今日は出来たという日は1日もなかった。
 百点満点にするならば、いつも50点だと自分でいっとられる、それでも神様が百点満点取ったかのように、おかばい下さって今日このようなおかげを頂いておる」と仰っておられます、自分がわかれば分かるほど、これで良いということは決してない、私共が見たらもうついいっぱいの御信心をなさっておられるかに見えるけれども。一日一日振り返って自分を見てみる時に「はぁ今日もまた50点しか取れとらんなと思う。
 それでも神様は百点取れたかのようにして、おかばいを下さっておかげを下さる」とこういう。素晴らしいことですね。その先生の信心の、いうならば、迫力と言った様なものが、神様をしてそういう働きを起こさせるのでしょう。ところが今日私はこの事がありましてから、合楽の場合はもっと素晴らしいなぁと思わして頂いて、合楽の場合はね、「いつも神が蓮根食うておる」と仰る。
 「顔を立てるだけではない、その上出来たかのようにしておかげを下さるげな、まだ欲するならば、神様が蓮根食うて下さって、神様がおかげを頂いている、現れているのが合楽の信心じゃ」と仰る。皆さん何故でしょうかね、勿論おかばいも下さってある、おかばいだけではない、それこそ蓮根食うて下さってというのです。合楽の場合は何故蓮根食いなさると思いますか、ここを皆さんが本当に分からせて頂いて、だからそこを頂かなければ合楽におかげを頂いている値打ちはないという事になるのです。
 合楽で云っておる信心は金光教の信心の芯であり真髄であり、いよいよ金光大神がこの世に生を受けられた、金光大神がこの世にお生まれになった神様がこの方に神依頼をなさったその神の願いが合楽によって始めて成就しようとしておるという事だからなんです。百年経った金光教のなかには、今いうたいろいろなさまざまな、いうならば、顔を立ててもろうておかげをドンドン頂きなすった、有難い一念でおかげを頂きなすった、御祈念力で助かりなすった、撫で摩るだけで助かりなすった。
 お与え薬のような事で、さあ9000円でドンドン助かっておる事実教会があるという事なんです。成る程そげんなら創価学会なんかはどうするか、あん位のもんでもあげん沢山の者が助かりょるじゃないか、何々教でもどげん考えてもおかしいと思うばってんあんなにたくさん人が助かりよるじゃなういかという事なんです。私が合楽で皆さんに聞いて頂いているお話はね、金光教の信心の真髄なんです。
 しかも助かりの理念なんです、絶対の事を絶対というて、私が皆さんに伝えておるという事が、こんなに、間違いのない話を、間違いなく伝えている処は、今までかってなかったんです。だから、合楽の場合は、神様が本当の事をしておるから、神様が顔を立てるとか、おかばいという事ぐらいではなくて、もうそれこそ、出来ておらんけど、出来ておるかのように、蓮根食うてくださって、おかげを頂いておるこの合楽の姿というものは、それなんです。
 ですから本当にそれは出来ませんけど本当にそこを目指さなければならないその方向に向きをかえなければならない、いわゆる、合楽理念ですそして本気で合楽理念をもってしなければいけない、合楽の理念を持ってダンダンおかげを頂いておるという事実が実証がここになされなければならない。
 私だけではいけない、皆さんが「合楽、あいらく」といい出した、そして合楽にもやってきた先日は岡山から2、3日前は団体参拝してきました、金光様を通り越えてから、本部を通り越えてからやってきました。それがどうした事からかというと、この頃やはり中近畿で私の話を聞いた、そして自分とこ辺りの教会も、大変な御比礼が立つ大きな教会だと思っておったけれども、合楽の場合はスケールが違うというていい振らされた、だから皆んなが参ってきた。
 参ってきたところが、三々五々で参ってきたけれども、なるほどなるほどと合点がいくようなものが、何かがそこにあったわけなんです。それで毎月月参りをしてくるというて帰られました。そのグループだけではない他にもある、今日古川に行とりましたら、ある信者さんが参ってきよってそういう意味のことをいっとりました。本当に本当の事が伝わっていこうとしている、そこで合楽自体、合楽信奉者皆さん一人一人もその本当のおかげに預からせて頂かなければいけない。
 毎日参りよります、拝みよりますというだけではどこの信者も同じこと、いよいよ本気でね、合楽理念を元にしての信心そして、おかげを実証していかなければいけない、そういう事が神様の願いなのです。ただ助かりさえすればよいということではない、金光大神のお心であり、天地金乃神様の心なんです、いわゆる和賀心を基軸にして、和賀心を基軸にしてということは、合楽理念をもってするならば、誰しもが土の心になり、水の心になると言う様な信心に徹していくならば、和賀心は自ずと生まれてくる。
 そこにおかげは頂けてくる、そこに末永先生ではないですけど半年の間に黒も白も現地のひとも日本人も助かっている事実、マットグロスの話もしたそうです、もうそれこそ半信半疑で聞いておられたそうですね。合楽理念をもってすればそうなんだから、お互い自身がね、合楽にご縁を頂いておかげを頂いておると言う様な事だけではなくて、合楽に対する一つの執念の様なものを、モチット燃やさなければいけんのじゃないでしょうか。本気で合楽の信心を身に付けるというに、精進しなければいけんのじゃないか。
 合楽の信心を本気でその気にならせて頂けば、必ず楽しみが湧いてくる、喜びが湧いてくる、そして愉快にまでなってくるという処まで。皆さんの信心が徹底していかなければならない。そして今日本国中で、合楽あいらくと言い出した、そしていって見た処が、なるほど、あちらの信者の一人一人が、合楽理念を持ってする他はないというておるという事をです、皆さんが実証頂かなければならない、と言う事でございます。
 今度の御本部参拝をさして頂きまして、特別に合楽がおかげを頂いておる、いうなら神様が蓮根食うて下さって、おかげを下さるという事は、合楽の信心がいよいよこれが本当に育っていくならば、間違いがないからではないかと、私は思いました。そしてこれは合楽時代の事でございますけども、さあ御造営がいわれるようになりました、もう随分長くなりますけど、いうならば、いよいよ合楽の芯にならなければならない、皆さんの一人一人が先ず御造営御造営でなくて。
 自分の信心の造営の方を、先ず願わなければならないという。それもどうでんよか、今の話でいうと、私が信心の造営をする、だからついて来る者はついて来いと、言う様な具合でございますけど、結局信心の造営をするという事は、結局取りも直さず合楽理念を持って、例えば好きなもの好き過ぎるものがあるならば、これを取り除いていくという事もよいでしょう、日参するという事もいいでしょう、いろいろと自分で工夫して信心の、いうならば、造営を計らせて頂かなければならない。
 いよいよもっての16日の報徳祭、だから今日申しました内容を持って、その報徳祭に臨みたいと思います。そこで私どもがね、神様おかげで唯お礼を申し上げるというだけでなくて、おかげでこういう、本当の事が分からして頂きました、その本当の事を行じさせて頂いております、ところがその、本当のおかげが頂けそうな気配が見えてきましたというような事だけでも。報徳のお祭りの内容になるのではないでしょうか、ね。
 本気で、いうならば合楽理念を、唯聞いてるだけではなくて、自分のものにさしていただこうと、発心さして頂いたというだけでも、神様への報徳の、いうならば、徳に報いるお礼になるのではないか、いやそれを一番喜んで下さるのではないでしょうか。こういう時にはこういうおかげを頂いた、あぁいうおかげを頂いたと、言った様なおかげでは神様は喜ばない。
 泉尾の先生ではないけれども、過去帳読むようなおかげで、祝詞を奏上したところで神様がなんで喜びなさるか、あれからこういう信心をさしてもらって、こういうおかげを頂いたという事でなからなければ、神様の徳に報いることにはならん、と仰っとられるが正しく私もそう思います。今日を境に信心の造営に参画さしてもらおう、今日から好きなものを止めよ、とは神様は仰らない、けれども好き過ぎるものがありましょうが、過ぎるものは弊害になります。
 だから好き過ぎるものを押さえる修行をさしてもらうとか、お参りにいろいろ工夫さしてもらうとか、そういう修行をさして頂いてから、この16日の報徳祭に臨まして頂きたい。本当に神様に喜んで頂くような、「そこに気がついたか」というて下さるだけでも神様が喜んで下さると思うんです。「こういうおかげを頂きました」と言う様な事で。本当のことを教えてもらってるですから、本当のことに気付かせてもろうて、本当の事を行じて、本当のおかげを頂いた時に始めて。
 神様から蓮根食うてもらわんでもおかげが頂けるようなね、そういう信心の姿勢を作らなければいっけんのではないでしょうか。合楽理念とはといわれても、一口でいわれるか、ひとくちでも十口でも、百口でもよいから、本当に合楽理念というものを、自分が身をもって行じていなければ、本当の話となって出てこない、これは不思議です、そういう実のあるお話が出来る、それが本当に合楽示現活動になることになり、参画することになるのです。どうぞ神様と氏子と金光大神とが一緒になって
  以下末尾切れ。